ネットワーク型社会とはなにか
同じ会社に一生勤める代わりにその時々にプロジェクトに参加する。これが「フリーランス型ネットワーク社会」の働き方だ。プロジェクトは過去に培ったネットワークを通じてやってくる。各個人は複数の仕事関係者とつながっていて、複数の専門を持っている。これが、このモデルを「ネットワーク型」と呼ぶ理由である。純粋なネットワーク型社会を実現した国はない。つまり「ネットワーク社会」は実験室的な概念である。フリーランスが多いアメリカ社会が一番近い位置にある。
なぜネットワーク型社会に移行する必要があるのか
かつてはアメリカも終身雇用型の社会だった。これが崩れたのは多分日本と同じような事情による。イノベーションが加速すると、会社の寿命が短くなる。つまり、一生の間(20歳から働き始めたとして定年60年までの40年間)よりも会社の寿命が短くなれば、終身雇用は単純に成り立たなくなる。日本では労働流動性が上がらないことが、いくつかの理由によって、企業の労働生産性を下げている。一般に言われる理由は労働者のスキルが更新されないことだ。この他にも新しい形態(つまり価値を届ける新しいやりかたそのものがイノベーションになりえるので)に移行できないこともイノベーションを阻害するだろう。さらに人や組織は新しい情報に触れることで学習する。
学生が就職できないことも弊害の一つ
さらに、大学生が就職できないのも弊害の一つだ。まず第一に企業が新しい産業に移行できないことで規模が縮小し、雇用が生まれない。顕著に成功する企業が出てこないと、学生は過去の成功事例をもとに企業の善し悪しを判断するしかない。故に大きな会社に応募者が殺到する。また、企業は新しいスキルを評価できない。故に優秀な学生を評価できない。間接的に大学も新しい産業に即したプログラムを開発できない。実は労働者が流動しないのが問題なのではない。知識の共有と移動が問題なのである。つまり、会社への依存が減れば、就職率の問題も解決することができる。つまり、就職問題は「解決するのが難しい」わけでも「解決策がない」わけでもない。ただ、解決への第一歩を踏み出す事ができずにいるだけ、のことなのだ。
ネットワーク型の組織
我々が今見ている組織は階層型組織だ。プログラミングの歴史を知っている人であれば直感的に理解できるだろう。私たちが今見ている社会はCOBOLだけで動いているプログラムのようなものである。階層型はネットワーク型の前段階にしか過ぎない。ネットワーク型の構造は自発的に作られないので、前段階として階層型の組織が必要だからだ。実際には純粋にネットワーク型に移行した社会はなく、すべての社会はネットワーク型と階層型を組み合わせて成立している。故に今後も「会社がなくなる」ことはないだろう。しかし、ネットワーク型の構造を取り入れない限り、問題を解決することはできないだろう。
階層型組織からネットワーク型組織を見ると、そこは西部劇の荒野に見える
今の階層型組織からネットワーク型組織を見ると、そこは西部劇の荒野に見えるかもしれない。明日の見通しがなく、従って人生の予想が立たない。現在「フリーランス型」と言われて想像するのは、地方の建築業界だ。ここでも人々はフリーランス型のネットワーク組織を形成している。こうしたフリーランス組織がイノベーションの担い手になることはない。いわゆる「上流」は構造型組織に握られているからだ。もう一つの問題がこのネットワークが単層型だからだろう。つまり大きく見るとこの組織は構造型組織の末端が統制されなくなっている状態にしか過ぎない。いったん建設業の仕事がなくなると、組織全体が困窮する。これはとても危険な状態だ。こうした地方の建築業者は農業に進出することで「リスクを軽減する」ことができる。しかし中央の流通業者とつながってしまうと、大きなリスク削減効果はない。地方の建築・農業会社が、なんらかの「中心」になれば事情は変わる。建築では末端だが、新しい事業では中央になる。東京がダメになっても、青森が牽引する。青森の調子が悪くても三重県が引っ張るという形だ。
ネットワーク型社会では日本人論がなくなる
こうしたネットワーク型の組織では、常にネットワークの一部が「切れて」おり、中央が破損している。中央が破損しても別の中央が組織を維持する。切れたネットワークはやがて新しい組織に更新される。このネットワーク型組織には「日本人論」はない。つまり、国全体が「「〜すべきである」というのは破損した中央の代わりに新しい中央が出現していないということを意味している。国全体が一つの構造化したネットワークである場合、構造そのものを変えなければ全体を更新することはできない。故に「日本はこう変わるべきである」と、全ての人が言っているのに、その解決策がバラバラで、なおかつ誰も変革のリーダーになれないのは、構造そのものが大き過ぎるからなのである。
グローバル化とネットワーク型社会
このことが重要なのは、世界が「ネットワーク型」に移行しているからでもある。グローバルな社会には一人の総司令官は存在しない。政治的にはアメリカが世界の中心だったが、もはやアメリカ一国が全世界の治安を保全することはできない。コストがかかりすぎるからだ。
ただ、組織を解体してしまえばいいというわけではない
組織型社会に慣れている日本人は、非組織型を正しく理解することができない。ただ会社を解体してしまえば、自由で柔軟な組織が生まれると思いがちである。つまり、会社を飛び出した人は「フリーになれば会社に縛られずに生きて行ける」と考えがちだ。しかしネットワーク型にはそれなりの装置が必要だ。例えば、新しい組織を習得する場所が必要である。この学校のカリキュラムは自発的に編成され、優れたものが「デファクトスタンダード」になる。こうした学校で勉強した人たちはマネージャーになったり、働き手になったりする。そして、一人の労働者は複数のスキルを持っているはずだ。例えばエンジニアがプロジェクト管理の知識を持っていたり、デザイナーが経営の知識を持っていたりする。これはその労働者がどれだけネットワーク型に移行しているかのテストになる。もし、そんなことは無理だと考えるなら、その人は組織型社会に生きていることになる。しかし、ベンチャーでWeb会社を立ち上げた人であれば「経営や税務の知識」と「Webサイトを製作する知識」の2つを持っていなければならないと当然のように考えているだろう。つまり、そういうネットワーク型の人材は既に存在しているのである。
「自前で全てを賄う事はできない」という理解がネットワーク型組織の価値観だ。こうした世界では人々はいくつかの行動様式を持つ必要があるように思える。
- 行動様式が異なる他人と意思疎通する必要がある。つまり面倒でも情報共有しなければならない。これが「ドキュメンテーション」が必要な理由だ。
- 同じ理由で「議論」が必要である。日本人は議論ができないわけではない。ただ、異なる意見を理解することができないか、違った立場を排除するために議論しているに過ぎない。協力の不在は議論の不毛につながる。
- 先に書いたように、一人が複数の職種に精通している必要がある。これは内面に複数の価値観を内包するということを意味する。「多様化」が言われるが、多様で単価値観を持った人を組織に抱えるという意味ではない。広い価値観を持った人たちを複数揃えるのが「多様化」だ。
全ての人が一夜にして変わることはないが変化は起こる
ネットワーク型の社会は、明確な中心を持たない。故にある日突然社会が変化することはないだろうし、国民的な議論を通じて社会が変わることはないだろう。故に終身雇用が2011年1月1日をもって変化するということもないに違いない。変革にはいくつかの通路がある。これを別の事例から考えてみたい。
ながらく日本のネット環境は実名化されないと考えられて来た。たしかに2ch、はてな、mixiまでの流れはそうだった。実名化が進んでいるのはTwitterだ。Twitterで実名化している人たちは職業的なメッセージを流している場合が多い。つまり実名のネットワークにつないだ人の方が有利に情報取得ができる。この原理で実名化が進むのではないかと類推される。「匿名社会」は今でも残っている。新聞社やテレビ局は匿名ネットから攻撃されることが多く、実名のFacebookを推進したりする。しかしmixiにいた人たちが実名であるべきだという理由でFacebookに乗り換えることはないだろう。つまり、同じようなソリューションが異なる文化によって置き換えられるわけではない。全く異なるソリューションが古いルールを結果的に置き換えてしまうわけだ。しかし振り返ってもSNSになにが欠落していたのかを説明できない。また、このルールは日本固有のようだ。例えばアメリカではFacebookが実名化を推進したのだが、日本人はTwitterを多く使っている。
多分、構造化した社会も同じように次第に変化してゆくはずだ。故に古い制度が「なぜ古びているか」を証明しょうと努力したり、他人にも「新しい制度の方がいいから」と説得・強制したりすることにはあまり意味はないだろう。必要とされているのは、目標達成のためにはどのような制度がよいのかを考え、その実現に向けて実際に動きだすことだろう。


