ネタ2本目。結局、ネタもので年末年始を乗り切るのかなあ。
内田樹さんというエッセイストの文章が注目を集めている。才能というものは世間に相応のお返しをしないと枯渇してしまうよという物語だ。経験的知見なのだそうだ。この物語りを読んで、その反応(ブックマークという形式でコメントが付いている)を見ていると、書いてあることより書いていないことが難しい。
まず「人間関係が貸し借りによって理解される」という点が興味深い。日本人は物事を「引き算して」考える傾向がある。借りてプラスになったら、返さないと心苦しいのである。縮み志向と言われたりする。この文章では、才能は「Gifted」なので、借りたら返さなければならないと考えられている。多分、アメリカ人はこうは考えないのではと思う。Giftedは足し算の要素だ。才能があったら追加して行く。故に、あれもできる。これもできる、となる。ところが日本人は引き算傾向が強く、突出した人が偉そうにすると集団で罰するという傾向がある。例えば相撲で勝った力士が喜びを表現すると、世間から罰せられる。強くても「みなさんのおかげで勝ちました」と言わないと受け入れてもらえないのである。特に「新しい才能」は周囲から押さえ込まれる運命にある。才能は誰にしろ何かあるとは思われておらず、周囲にいる人たちは才能のある人が脅威になりそうになると全力で押さえ込むのである。
第二に、才能は個人のモノと考えられている点が面白い。内田さんは1950年生まれなのだそうだ。この年代の日本人特有の考え方なのか、内田さんの個人的な価値観なのかは分からない。コメントにも同じような傾向が見られる。才能は「私」に属している。彼が「モノカキ」だからなのかもしれない。
例えば「マンザイ」を考えてみよう。ツービートやコント55号のようなペア(一方に才能がある)もあるけれど、一般的にボケとツッコミが必要な形態だ。例えば「才能にあふれたボケ」がいたとする。彼の才能は「ツッコミ」を必要とする。このように、個人に属するけれど、集団の中でしか役に立たないという才能は多い。また、マンザイの場合、コミュニティにある程度力がなければならない。「マンザイという文化がない国の公園で一人でボケをしている才能豊かな男」というものを考えてみるといいだろう。バカみたいだ。
マンザイは比較的育成スキームができている。商売だからけしからんという向きもあるが、マンザイで稼いだお金が育成に回る。人気があるので、ほとんどがプロになれないにも関わらず志望者が集る。中にはテレビで稼いだカネで芝居を打つ場合もある。ビートたけしのように、いよいよどこにも行く場所のなさそうな人たちが「タレント」として一本立ちできるように支援する人もいる。萩本欽一は「欽ちゃん劇団」を作ったり、同じスキームを野球に広げたりしている。この人たちには「ある暗黙の伝統」があり、それを意識的・無意識的に引き継いでいるのであろう。このようにしている彼らの行為は「社会貢献」だろうか。
演劇や芸能は「普通の経済の枠外」という認識が強かった。故にどこにも行く場所のなくなった人たちが、自分たちで立場を強化しなければ、誰も守ってくれないという認識もあるに違いない。つまり、こうした集団は「保護装置」の役割も果たしている。これを一般化すると「フリーランス」の人たちは、自分たちのネットワークが外部に認識されるように、相応の貢献をしなければならないということになる。また、前回の議論で見たように、フリーで働く人たちはそれぞれのネットワークを通じて仕事を分担する。そこでいう才能は「世の中全体を母集団として第一位でなければならない」というほど特別でなくてもいい。そのネットワーク内の「比較優位」で十分なのだ。たけし軍団を見ると分かるように「比較優位でなくてもよい」場合すらある。例えば、あるネットワークのエンジニアは世界一の技術者ではないかもしれない。だからといってその人には才能がないということにはならない。「個人の才能」と「ネットワーク内連係」の二つが成果に影響するからだ。
このように相互扶助が当たり前になっている社会では、才能は取り立てて特別なものではない。これが特別視されるのは、こうした私的なネットワークが存在せず、個人間の役割も明確でない中で、いきなり「私の才能ってなにだろうか」と考えざるを得ないからなのだ。仲間内でスケジュール調整がうまい人は「プロジェクト管理者」になるのだろうが、こうしたプロジェクトがなく、プロジェクト管理者全国模試第?位として計測されてしまうと「俺には才能がない」となるかもしれない。
実はここで問題になっているのは「才能の多寡」の話ではなく、ネットワークの厚みと多様性の問題だ。現代を生きている、この人たち(著者と受け手)は、暗黙の前提として「職業的ネットワーク」が極めて単純化された世界を生きている。故に日本でトップレベルである才能のある人と、才能なんかない(ほんとうは比較優位的な才能のない人はいないはずなのだが)という世界が構成されるのだろう。こういう「相互扶助砂漠」のような世界でマジメに考察を進めると「何かワケの分からない力があり、贈り物が届けられる」という物語を持ち込まざるを得ない。実際には才能を還元するのは、彼や彼女が活躍できる舞台を自分たちで維持しなければならないからだ。つまりある程度経済合理性のある必要経費なのである。
才能を返さなくてもいいのは、その活躍する場がとてつもなく大きく、個人が維持に関わらない場合だけだ。しかし、実際には比較の問題だろう。誰も維持に貢献しない(つまりアクターがフリーライダーになっている)舞台は、長期的には浸食されてなくなってしまうはずだ。これは実際には才能の枯渇の問題ではない。維持費用は一種の税金で、「お互い様」であるのだが、アクターが分離するとこうした実感が得られにくくなる。例えば舞台が「国税」でカバーされたらもう実感は得られないだろう。
どうやら1950年生まれの人が形成する世界には、もう「相互協力」はなかったようだ。この物語りを引き継いだ人もそれを「当然の前提」と捉えているフシがある。何か欠落があるのであるが、欠落であるが故に全く意識されない。ところがマンザイ(ここで見たのは浅草演劇の伝統を引き継いでいる人たちだが)の例を見ると分かるように、日本にも相互扶助的な職業のエコシステムはあったのだし、今後日本が企業前提の社会からネットワーク型のフリーランス社会に移行する上では、重要な視点であるわけだ。私たちは過渡期にいて、欠落したもののせいで先に行けないのだ。


