麻木久仁子さんの訳


すみません。年末なので、毎日書くかどうか分かりません。また、まじめに一つのテーマも追いかけません。いわゆるネタなので、マジメに反論するのはやめてね。また、マジメに引用する(却ってこういう人のほうが怖い)もやめてくださいね。ネタです。

山路徹という人が騒動を起こしている。巷では「そんなにかっこよくない彼がどうして美女(それも「あ行」の)にモテるのか」と話題沸騰中である。僕もその点に非常に興味がある。阿川佐和子さん(やはり、一緒に仕事をしたことがあるそうで、「あ行」でもある)によると、戦場でのやり取りは、危険を顧みず、シゴトもできる人のようだ。また、身長は180cmもあり「現場では頼りになる存在」として映るのだろう。「目的のために手段を選ばず」「危険な現場で交渉ができるから敵を作らない」は、現場では優位に働く。これが別の「現場」で問題になった。

彼のお仕事は情報を地点Aから地点Bに移動させることだ。故に、B地点で知られなければ、A地点では何をやってもいいことになる。どっちみちA地点には戻らないのだし、安全なB地点にいる人たちはどっちみち危険なA地点には出向かないだろう。ということで、二人の女性に「同じようなこと」をやり、「二人の言い分はどちらも正しいと思います」と語った。この点では鳩山由紀夫さんに似たリーダーシップを持っていると言ってよい。日本の組織では有効なリーダーシップ(「まあまあ穏便にやりましょうや」型)である。首相にならない限りは有能な人といってよい。モテない僕は「この優柔不断さ」(これを優しさだと思えないから、僕はモテないのだろう)が女性にモテるコツなのか、と少しひがんでみたりもした。

さて、この問題「女性問題とジャーナリズムは別」という世論が作られつつある。しかし、僕はそうは思わない。論理的に理路整然と考えてみよう。

まず、第一に、彼は「危険を省みず」「地点Aと地点B」を結ぶ情報通路として機能している。不倫で頭がおかしくなってしまう人もいるだろうが、彼にとってはサラエボの戦火と不倫の比較だ。故に、彼はこうした行為に「適性」があったことになる。つまり、シゴトの特性と私生活のマネジメントはつながっているのである。

次に、彼の行動には「合理的」な理由があった。つまりもともとの大義はどこにあったかは分からないが(もしかしたら、末端にある制作会社のディレクターとして働いていた時に「いつか一旗あげてえなあ」と思っていただけかもしれない)世の中の危険な地域の現状を世間にお伝えするためにはお金がいるというのは、一応は大義に分類できるだろう。その為にスポンサーが必要だ。この意味でも彼の私生活はシゴトと結びついている。

最後に考察すべき問題は、これが「特異で意思が弱い人」が起こした問題か、はたまた一般的な問題かという点だ。前回のシリーズで分析したように、アメリカ型フリーランス社会(ちょっとかっこつけて「ニュークレアス」と表現した)にはいくつかの特性があった。山路さんはいくつかの理由でフリーランス社会の成功者といえる。

  • いくつかの帽子を被っている。ここでは、ニュースの制作者、編集者、投資家だ。つまり山路さんは組織の力を借りることなく「ファイナンス」について頭を悩ませることになる。また、売り込みも彼自身が行う。これができるから通信社の代表になれたのだろう。
  • 彼自身のネットワークを持っている。
  • ニッチ(ここでは戦場のビデオジャーナリズム)がある。

彼は「戦場に行く」準備をするために、自分の一番得意なことで「ファイナンス」する必要に迫られていた。得意だったことは夢を語り、女性(もしかしたら職場の男性にも)に優しくすることで、戦場でも役に立つ資質だ。これは同じ戦場カメラマンである渡辺陽一さんにも共通する。危険を省みない資質と穏やかさを同時に持っているほうが生き延びやすいに違いない。

さて、一方の麻木久仁子さんはバラエティー番組に出ている。お子さんがいらっしゃるので「得意なニッチ」で稼がなければならない。バラエティー番組は安上がりに大衆が好みそうな話題を提供し続ける。気楽で何も考えなくても見られる。ジャーナリズムという名目でどうでもいい歌舞伎俳優のお酒の上でのけんかなんかを取り上げ、さも重大事のようにコメントしたりもする。人が見るからスポンサーがつく。こうした所に出ていて、なおかつ少しばかりモノの分かっている人は「大義」を別の世界に求めざるを得ない。大桃美代子さんは「農業」と「地域貢献」に活路を見いだした。そして二人とも「自らの命を省みず、戦場に赴く大義」に、自らの存在価値を見いだしたのかもしれない。私がバラエティで稼いでいるのは、ジャーナリズムの大義のためなのだということである。

麻木久仁子さんは、結婚を公表していなかった。イメージの問題がいろいろあったのかもしれないが、それよりも「これは何かおかしいんだろうなあ」ということに気がついていたのではないかと思われる。これは長く続かないだろうなあということで、案の定、山路徹さんには新しい「スポンサー」の存在が噂される。

さて、山路徹氏を永久追放にという記事がある。死んだジャーナリストを使って金儲けをして、けしからん、という論旨も透けて見える。もしかしたら長井さんの死は利用されたのかもしれない。もしかしたらその死を利用してでも次の取材費用にという「大義」があったかもしれない。それは誰にも分からない。

僕には「山路さんが例外」というようにはどうしても思えない。むしろ、日本のジャーナリズムは、何かが欠けているが故に娯楽をスポンサーにしなければ生きて行かれない貧弱な存在だということを、認識した方がいいのじゃないかと思えてくる。もし民放から一切のバラエティー番組がなくなって受信料のないNHKになったら、ニュース番組のスポンサーなんか見つかるだろうか。企業も報道番組には興味もなく、ニュースのフリをした宣伝をして欲しいと思っている。見ている視聴者も「テレビ局は意見を控えた純粋なニュースを流すべきだ」と期待しているわけではないし、区別が付かない。つまり、そもそも「安価な娯楽がジャーナリズムをファイナンスする」構造ができているわけである。

日本は集団で仲良く成長する時代を終えて「うかうかしていては生き残れない成果主義」の時代に入ったと言われることがある。本来ならば目標はストレッチされなければ、成長は望めない。それを維持するのは「大義」とか「理想」とかいう、きわめてあやふやなものだ。これを公的にささえるか、私的に支えるかの違いがある。山路さんの行為を支えていたのは「私的で優しい嘘」だった。倫理的かどうかも良くわからない。

実際の成果主義は目標を自己設定できる。現状に甘んじているとどんどん「自己採点」が甘くなってしまう。「とりあえず、こんな番組を流しておけばいいか」というテレビにおいて、ジャーナリズムがどんどん浸食されて行くのは仕方がないことなのかもしれない。例の「戦場カメラマン」氏がバラエティー番組で次の取材費を稼ごうとしているのと、山路さんが「バラエティタレントの個人事務所の社長としてバラエティ番組で得られたギャラを取材費に回すこと」は実は同じ根を持っている。それはもしかしたら、起業家やテレビ局が介入して「バラエティータレントのギャラをジャーナリストに回す仕組み」を作らないから起こったことかもしれない。つまり、この「不倫問題」は実は日本のジャーナリズムの構造的な状況を如実に映し出していると解釈することは可能だ。

多分、山路さんを追放しても同じようなジャーナリスト達が登場してくるだろう。故にジャーナリストたちは、もし自分たちの活動に大義があると思うのだったら、自らの活動を経済的に裏打ちする「共同体的組織」を作ったほうがいい。日本には「現場主義」というのがある。いつまでも現場で活躍する人が「エライ」という考え方だ。しかしマネジメント(お金について考えるコト)はとても大切なのである。クリエイティブにマネジメントが必要なのは、その大義を維持するために重要な機能なのだ。

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