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さて、今回の考察もいよいよ終わりに近づいた。コンセプトが重要になる世界では、人々は組織を再編成する必要がある。つまるところ「モノ作り」は経済的には一つの要素(投資、コンセプト作り、モノ作り、消費)でしかない。これを中心に政治経済のすべての仕組みを作ることには明らかな限界がある。人を中心に組織を再編成する方法を「ヒト・セントリック」と名付けた。ヒト・セントリックに登場する人にはいくつかの望まれる特徴がある。

まず第一に、その人は複数の役割を担う必要がある。先行事例として挙げた「理想的な」ファッションデザイナーは、モノ作りの経験があり、コンセプトを作ることができる。さらにグラフィックデザイナー(つまり、発想と編集を同時に行う)でもあるのだった。ところがデフレで荒廃した日本では、デザイナーは「下請けである所のサプライヤー」(「下請け」も日本特有の概念なのだが…)にデザインを丸投げする。もしくはデザインなどに興味のなかった会社が「プライベートブランド」と称して「何か売れる服を作ってよ」と発注を行う。つまり、デザイナーに与えられた機能は「マネージャー」のみになってしまうのである。デザイナーはいつまでたっても実務が経験できない。

裏返しになっているのは消費者の間に広がる「暖かくて、こぎれいで、安ければいいや」という態度だった。いったん、こうした事態に陥ると消費者は、消費者の視点で、費用対効果を追い求め始めるだろう。これは「消費」と「生産」が完全に分離されており、消費者が生産に関する知識を「価格以外」には持たないからだ。ヒト・セントリックでは、関係者は個人的なネットワークを通じてつながっている。この人たちのつながりがソーシャルネットワークの起点になっている。つまり、アクターは個別にネットワーカーである必要がある。

このモデルは分業を前提にしている。アイディアはシェアされなければならない。(逆に言えば、シェアされたアイディアはなんらかの手段で保護される必要がある)著作権があるのかもしれないし、紳士協定ということもあるだろう。アメリカのフリーランサーを見ると現実的には「ユニークさ」がアイディアを守っているようである。これをニッチと表現する人がいる。つまり、真似しようと思えば真似できるが、規模が小さくて大企業が入ってこないとか、特別な技能のセットがあってとてもあの人のようにはうまくできないとか、そういうことである。棲み分けがアイディアを守っているのである。集積型は国のリソースを限られた分野に集中するのに役立つ。一方、こうした分散型は外部からの攻撃に強く、安定性が高い。

次にアイディアはドキュメント化されなければならない。「口で言えば分かってくれるだろう」というのは、同じ文化圏で、同じ言語を使い、同じ経験をした人たちの間でしか通用しない。ドキュメントの読み方には基準がある。(これをリテラシーと呼ぶ)リテラシーができるのは、地域に標準化したドキュメントを教える学校があるからだ。ドキュメントの標準は市場が決める。故に学校は産業と直結している。ハリウッドにはハリウッドの学校があるし(実際にはUCLAやUSC※などが教育を担っている)日本では国がこれを決めたりするので、市場の現実にそぐわない「リテラシー」が作られる可能性が高い。これに諸外国が従ってくれればいいのだろうが…。リテラシーは技術を運ぶ器だから、ここが硬直化すると、こんどは「リテラシー」というシステムにモノ・セントリックな社会が作られる。例えばドラッグストアが24時間営業していて、簡易薬を扱う薬剤師が大量に必要だとする。しかし、薬剤師の免許を取るためには現場ではほとんど使われないであろう知識を大量に詰め込んでいるのだと非難されることがある。これが「モノ・セントリック」が過度に進んだ状態だ。ここで「利権」がささやかれることがある。真実を現している側面もあるのだろうが、一方ではシステムが巨大すぎて自己変革できないという能力の問題も絡んでいるのだろう。※ジョージ・ルーカス ロバート・ゼメキス ロン・ハワード ブライアン・シンガー ジョン・カーペンターなどがUSCの卒業なのだそうだ。

さて、ハリウッドの映画監督たちの一部は、後にプロデュースに関わったりする。これは先ほどの役割のモデルでいうと「プロダクション」から「投資」「マネジメント」に進出したということだ。ここから進んで「ほんとうに投資家」になる場合もある。そして彼らは学校にいって自分の経験を教えたり(シェア)、学校や講座を作ったりする。この学校で学んだ人が全て映画関係で就職できることはないかもしれない。しかし、こうした目利きの消費者は、優れた選択眼を通じてよい脚本家を育てたりすることがあるのではないかと考えられるのである。

このシェアとセットになっている概念が「コントリビュート」である。ハリウッドに育てられた映画監督は後にコミュニティに貢献するようになる。これ日本人が考えると「お世話になったら恩返しする」というように取られるかもしれない。しかし、これはピアプレッシャーから出た言葉だ。実際には「ハリウッドが盤石に機能していれば、中にいる彼らも有利」なのである。

日本で労働者として働いていると、こうした産業エコシステムへの関わりは限定的になる。会社のいうことを聞いていればいいのだし、契約した時間だけ働けばいいということになる。逆に会社からクビを切られてしまえば、すべてのエコシステムから離脱させられてしまうだろう。権限も限定的だし、責任も限定的である。故に会社を離れて映画を見る時間はプライベートだ。ファッションデザイナーのように普段見た映画が着想のもとになることもないだろう。(もし、シゴトで映画を見るのだったら、その費用を会社に請求するかもしれない)

このように、アクターが役割で分断された環境は、シェアしたりコントリビュートしたりする動機が失われて行く。と、同時に知識の再編成も限定的になることが予想されるのである。

ここで最後に予想されるのは「ここで出てくる例はファッションや映画産業のような特殊で限られた世界の出来事であり、私には関係ない」という反論だ。もちろん、脱工業化しつつあるにもかかわらず、そこに留まろうとすることはできるだろう思われる。国を挙げて全てが、こうしたコンセプトベースの社会に移行すべきだと主張するつもりはない。中国やインドの賃金労働者と真っ正面から戦ってもいいだろうし、これを借金でファイナンスした国債で支えてもいいだろう。

これは選択の問題なのであり、それを強制する人は誰もいないのである。

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