ヒト・セントリック


さて、今回は「脱工業化した社会で経済を活性化させるため」に何をしたらいいのかを考えている。経済が不活性である(不況ともいう)とはどういう状態なのか。それは投資家にとっては投資対象がないということであり、労働者にとってはシゴトがないという状態だ。会社はモノが売れない。売れたとしても安売り競争に巻き込まれているので、それほど大きな利潤がない。故に価格を抑え、それにつれて労働者の賃金をおさえる。ここで消費者はあまりフラストレーションを感じていない。そこそこのものが安く手に入るからである。

企業はマーケティング活動を通じて消費者に働きかける。モノが売れなくなると新しい投資ができないので、新製品が作れない。出来合いのものに味付けして売出すことになる。企業は「何を作ったら高い価格で買ってもらえるだろうか」と考える。しかし、消費者は与えられたものを評価するだけなので、めったに提案はしてくれない。同時に企業はどうしたら労働者のやる気を(低い賃金で)維持できるかを考える。これはなかなか難しい。投資家は「モノ」を通じて投資判断する。

しかし「モノ」が売れなくなると、何に投資していいか分からなくなる。労働者もこれは同意見だ。特に新卒学生は「どれもたいして売れない」状態では何か別の指標を求めるようになる。それが企業の大きさや過去の実績だ。どうやら新卒学生の応募が大企業に殺到しているようだ。これをはじくのに書類審査を厳しくする。事務作業だけで、候補者の一人ひとりを詳しく審査する時間がないらしい。

この状況を大きく括ってみる。人間の活動は「モノ」や「システム」を中心に回っている。これを中心にして人間はいくつかに分類される。消費する人を「消費者」という。これを「モノ・セントリック」の世界観と言う。モノ・セントリックになったのは、社会が分業しているからだ。昔は自分で使うものは自分で(大抵は伝統的な手法で)作っていた。ヒトはモノとの関わり「アクション(=消費する)」を通じて定義される。故にここでは人は「アクター」と考えられる。アクター同士は「情報」を交換する。交換された情報は「評価」される。投資家は、ビジネスプランという情報を通じて会社や起業家を評価する。

しかしうまくいっている投資空間で、「投資家」はもはや「モノ」を中心にビジネスプランを評価しない。コトラーの資金調達マーケティング 起業家、ベンチャー、中小企業のための投資家獲得戦略によると、ベンチャー企業の投資には何段階かのステップがある。まず自己資金や家族資金でビジネスを始め、その後資金調達する。調達先は自分でビジネスをしたことがあるか、これまでも投資をし続けて来た人である。彼らはもちろんサービスの中身を評価するのだが、投資家が着目するのは「人」である。つまり、同じようなビジネスでも執行者によって結果が違うと考えるのである。投資家がうまく人を評価できるのは、自分のこれまでの経験を通じて、評価できる「目」を持っているからだ。投資家は金を出すだけではなく、執行者にアドバイスもする。つまり「アクター」はその時の状況によって分かれているものの、本質的にはこの人たちはどちらも「ビジネスマン」なのである。

現代日本では「非正規雇用」と「正規雇用」が完全に分離してしまったが、20年程前までは「ほぼ全員を正社員として抱えて」「経営に参画させる可能性がある」という建前があった。(この中に女性は含まれておらず、故に「女性総合職」は大きなニュースとしてい扱われた)これはアクターのうち「労働者」と「会社」(アクターは経営者やマネージャーということになるだろう)が分離していなかったということだ。やはり「うまく行かなくなる」と役割の分離が固定化してしまうのである。

経済の不活性にはいろいろな原因があるだろう。しかし、結果として現れるのはそれぞれのアクターが与えられた情報を通じて相互評価ができなくなるという状態だ。ここにいくら情報を付け加えても状況は元には戻らないだろう。

これを修正するためにはどうしたらいいだろうか。よく考えてみれば、人は古びてしまったシステムをなんとか動かすために、様々な無駄な活動を強いられているわけだから「人」を中心にシステムを再編成してゆけばよいだろう。これを「ヒト・セントリック」と呼ぼう。かなり実験室的な概念だ。例えば「投資空間」では、ビジネスマンが「投資したり、投資されたり」「アドバイスしたり、アドバイスされたり」している。つまり、それぞれの問題は細かく、それぞれのネットワーク(ソーシャルネットワーク)を通じて解決する。

ヒト・セントリック社会では究極的には、コミュニケーションの問題は発生しない。情報ロスがなくなれれば、不活性は発生しない。故に、経済は再活性化されるであろう。問題の大抵は「古びてしまったシステム」をカバーするうちに、ヒトが疲弊してゆくことだといえる。

さて、この「全てを解決してくれる万能薬」には、いくつかの欠点もある。消費者であり、生産者(会社という概念はかなり揺れているようだ)であり、投資家であり、自分で手も動かすという「アクター」が究極のヒト・セントリックなのだが、そんなスーパーアクターは存在しない。能力がない(つまり有能なマネージャーであっても、自分で手を動かして何かが作れるとは限らない)か、リソースがない(有能なプログラマーであっても最初の自己資金がない)。

もう一つの欠点は、あまりにも「モノ・セントリック」に慣れすぎてしまっていて、発想が転換できないことだ。雇用問題を解決するためには「会社」や「学校」のあり方を変えようと考える。会社に依存することをやめて「起業したら」くらいまでは考えるのだが、システムベースで考えるとなぜか途中で行き詰まってしまうのである。行き詰まったシステムはあまりにも巨大なのでこれを一夜で改善するのはほとんど不可能に近い。あるシステムを中心に考えると、ここから出た人は「外れた人たち」だと見なされてしまう危険性も高い。

ヒト・セントリックの一番の欠点は、これが「社会主義」や「共産主義」の理念によく似ている事だと思う。これも労働者中心(労働者である前に人間だというようなことだと思う)の概念だと思うのだが、あまりにも純粋に行き過ぎると孤立してしまうだろうし、他の暴力的な不満と合流するとシステムは変質するだろう。

「完全ヒト・セントリック」は実験室の概念であり、実際には存在しない。もし完全なヒト・セントリック社会が作れるスーパーアクターは自給自足ができるので、その人は社会を形成しなくてもいいはずだ。しかし、モノ中心の世界が行き詰まっているときには「実験室的な概念」は考察の助けになるだろう。

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