中年の危機を恐怖に変えるもの


昨日のエントリーでは、個人の人格がどのように成長するかということを見て来た。これが唯一の成長の仕方ではないかもしれないし、人格を成長させることが、果たして本当に人間の達成すべき目標なのかということは分からない。人格はその人が持っているものを核に(その中には矛盾した相反する性質も含まれているようだ)全体を統合してゆく作業だ。内なる要求を無視し続けていると、その力に圧倒されて精神が破綻してしまうことすらあり得る。

しかし、一歩人格の形成に踏み出したとしても、それが結果的に善い方向に動き出すのか、悪い方向に動き出すのかは分からない。また、仮に善い方向に動いたとしても、形成の途中で社会に飲み込まれてしまうと、社会には無意識的な働きしかないので、成り行きに流され暴走する可能性がある。

中年の危機は、2つの意味合いがある。前半の人生で「無意識」や「内なる声」を活かしきれていなかった人にとっては、抑圧の反動と戦う時期になる。一方、自分なりに人生を選択して来た人たちにとっては、これまでの目標や動機付けが薄れてくることを意味している。これはその人が成長したからなのだが、それに対面している時点では、果たしてそれが成長なのか、破滅への道なのかということは分からない。

青年期の精神的な問題と違って、中年期には人生の初頭に起こったことの意味を意識的に捉え直す冷静さを持っている。したがって、そのときには解決できなかったコンフリクト(葛藤)を見つめ、冷静に理解することができるかもしれない。一度、意識化に成功すれば、問題は過去のものになるのである。ユング派の心理学では、内面を見るために、ファンタジーや夢といった無意識を映し出すものを使う。

正解が中年の危機を恐怖に変える

先に見たように、日本は正解の多い社会だ。正解とは社会が経験的に取り決めたルールであり、必ずしも合理的に作られているとは限らない。このルールが現状にそぐわなくなったとしても、それを即座に変えることはできない。合意によって決められているとすら言えない場合がある。ある構造ができているとその構造に従うことを求められる。形が規範を決めるわけで、その中で人が快適に暮らせるかどうかは分からない。

正解を語る日本人はとても雄弁だ。たとえば「あなたは古くさいと思うかもしれないし、私もそれがいいとはいわないけれど」と前置きしつつ「でも、社会は偏見に満ちているのだから〜ということはしないほうがいい」と言う人がいる。この人の気持ちの中でも二つの価値観が同居しているかもしれない、自分自身の声を棚上げして、外側の声に準拠して生きて行こうという気持ちだ。内面の声を聞く事自体が難しい。それが自分の声なのか、誰かほかの人の声なのかが分からないからだ。

正解の執行は相互監視でなりたっている。あまり強いリーダーが出て来てルールを恣意的に変える事は好まれない。ユングの論文で見た通り、第一次世界大戦後のドイツには英雄を待望する空気があった。これが結果的にヒトラーの出現を許した。しかし同時期の日本では、個人的な英雄が社会の全権を握るようなことはなかった。これは、安全弁としては非常に有効に働くのだが、同時に、個人の考えがそのままでは社会には受け入れられないということを意味している。

社会に準拠して生きていた人がいきなり個人の世界に踏み出すことは、色とりどりだった世界から白しかない街に踏み出すのに似ているかもしれない。色は外からは与えられないので、自分の頭の中で想像してくださいという訳だ。この恐怖はあるいみ踏み出してしまった人にしか分からないものだろう。少なからず、自分で考える機会があった人はなんとかやって行けるかもしれないが、それまで自分で考える癖がなかった人にとっては、まさに荒行と言ってよいだろう。

製造業的な世界観

製造業的な考え方に従うと、正解からはみ出す事は「不良品になった」ことを意味する。ラインには素材が送られてくる。それが組み立てられ、ラインの途中で検査がある。目視したり、機械で検査する。不良が検出されるとそこから弾き出される。弾き出された品物をバラバラにして組み立てなおすだろうか。それともそのまま捨てられてしまうのだろうか。不良品の出る率は「歩留まり」で割合管理される。日本の教育は工場ラインに似ている。目標は有名大学への歩留まりを上げることだ。大学には就職率という歩留まり管理が求められている。

当初目的に沿っていたかもしれない工場のラインは、操業しているうちに当初の目的が失われる。にも関わらず工場のラインは止まらず、全体が歩留まりで管理され続ける。たとえば先生は工場労働者に例えられる。この人は「私は、このやり方には問題が多いと考えているが、世間はやはり大学進学率で学校を判断するのだ」という。

たとえばこのラインを現在の目標にあったように改良したいと考えてみる。たとえば国際化のために英語を使った教育がしたいと思う。しかし部品のほとんどは日本語でできているから、ラインの改良はかなり難しいだろう。部品のほとんどを総取り替えする必要があるからだ。しかし、日本語でできている部品を英語に取り替えたとして、果たしてうまく行くだろうか。たとえば外国人とうまくやってゆく文化は育つのか。また、自分の考えを押し出す人たちと競り勝つために自己主張する技術は身に付くだろうか。そう考えて行くとそのプロジェクトの全体設計はとても難しそうだ。

それに加えて、改革の担い手は現れそうにない。工場労働者化している教師は、ガイドラインを与えられないと動き出さないだろうし、そもそもいまのラインを変えることが「逸脱行動」として抑制されることになる。ということで、こうしたやり方ではいつまでたっても自己改革はできないだろう。

実際に海外に人材を輩出する国はこのような面倒くさいやり方は取らない。人材を輩出するのは、国の規模が小さくて出て行かざるを得ないか、他の国に囲まれていて普段から交流が盛んな国だ。必要に迫られてそれぞれが努力をするからこそ、こうした改革はうまく行くのだろう。

異常な部品は修正されなければならない。きつくて付いて行けなくなったら根性で乗り切る。それでもダメだったら薬を飲む。そこまでしてもダメだった場合には、一人で思い悩む。そもそも内面の声に従うプロセスは極めて個人的なものなのだから、誰かに相談する事もできないだろう。それどころか、逸脱部品に待っているかもしれないのは、周囲からの批判の声だ。特にやっとのことでそこにしがみついている人たちにとっては、逸脱者は格好の批判の対象である。

最後には「死」だけが救いになるかもしれない。生命としては合理的な選択肢ではないが、多くの人が社会的な正解を目指して経済的な理由で自殺してしまう。その影には自殺まではゆかなくてもお酒に溺れて実質的な自殺に自らを追い込んでしまう人もいるに違いない。

社会を変えるための原動力になるかもしれない逸脱を「不良品」と捉えると、まず最初の一歩を踏み出す前に自らが自らを排除することすらあり得る訳だ。

なぜ中年期なのか

ユングは臨床経験から、精神的な問題を成長によって克服する患者をしばしば目撃した。『黄金の華の秘密』への注釈の中で、意識が異常な段階まで高揚し、そのため無意識から離れてしまったときには、その人の対立する性質のどちらか一方を押し出させることが有効な解決策になる場合があると考えた。すると成長が起こり、彼の対立の問題を過去のものにしてしまう。これを「過大成長」と呼んでいたのだが、意識の新しい水準だと考えたのである。

ユングの役割は、正解を与えず、その人が内面と対峙するのを手助けしてやることだったようだ。患者は結局は自分の力でそれを乗り越えて行くのだった。いわゆる治癒というのとは違っている。そして人は誰でも、本来、より高い水準を、少なくともその方がとしては持っているに違いないと確信するに到る。

成長の為に、あるものは外部からヒントを得て内的な必要性と結びつけを行なうし、逆の場合もありえる。

いずれにせよ、こうした成長は無意識が優位になっている場合には起こりえず、却って有害なものになる。そしてまた同時に青年期には有害で、中年期に入らなければ適切に処理できないだろうとも言っている。

人がこうした状態に陥ると、傍からみると機能停止した機械のように見えるかもしれない。しかしその内面では「過大成長」に向けた新しい全体性の構築が進んでいるかもしれないわけだ。それは個人にとっても、遠くから見ている人たちにとっても恐怖の瞬間なのだが、創造性の最初のプロセスになっているともいえる。

肉体が成長する青年期の成長と違い、中年期の成長は、青年期の経験をもとにした成熟と呼べるだろう。中年の危機に直面する人は誰もそういった可能性を秘めているのである。

カテゴリー: 未分類   パーマリンク

中年の危機を恐怖に変えるもの への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 2010 in review « Keynotes

コメントを残す

コメントを投稿するには、以下のいずれかでログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中